8月2日、僕がうまれた。
その日は前日から土砂降りの雨で、大層大変だったという。
陣痛がはじまり、今まで産んできた子の中で最も過酷な出産だったと、母は言った。
出産を終え、病室に戻った母がふと見ると
土砂降りだった雨はいつの間にか止み、とても大きな月が窓に映っていたという。
それから数十年経ち、あの時産声をあげた僕はこうして今間違いなく生きている。
7歳の僕が今の僕を見たら何を思うだろうか?
10歳の僕だったら?13歳、18歳、20歳の僕だったら?
僕は元来「精神的孤独感」というものに苛まれていて、
わかりやすく言うと幼少期の頃みんなで遊んでいるときも「どうせ夕方になればみんな家に帰って結局僕は独りぼっちだ」と考えるような性格だった。
「ひとはひとり」という思いは今になっても変わらない。
別に悲観的であったりネガティブなわけではなく僕は自論のような、そういうものだと思っている。
だがしかし。これは本当に理不尽な話だが、人は一人では生きていけない。
一人で生きていくためにも、誰かの力を借りねばならない。
幼少期、僕はそのことに気づいていなかったし不器用だった。
本が親友ではあったけれど、その親友は残念ながら感情のキャッチボールをしてくれなかった。
親友からのインプットはあってもそれをアウトプットし合える関係にはなかったのだ。
あの頃の僕は「こんなおとなにはなりたくない」とよく言っていた。
「ヒーローみたいになりたい」とも言っていた。
あれは17歳くらいからだっただろうか。
時々、生活の中で
幼少期の、あの頃の僕がぼおっとこちらを見つめているような感覚に襲われるようになった。
たまらず鳥肌が立つのだ。恐ろしくなるのだ。
「ひとはひとりだよ」「こんなおとなになってるなんてね」「きみじゃだれもすくえないよ」
そうやって言うようで、居心地が悪い。
それから、僕は心理学を学んだ。あの頃の僕と正面から大喧嘩するためにだ。
その光景を、あの頃の僕は無表情で見つめていたが、僕は捲くし立てた。
「僕はいま一人でいる誰かを救う。その誰かが何を考えて、何を思って、どうしてほしいのか読み解いてみせる。だから心理学が必要だ」
「【大人】という一つの単語でまとめさせてたまるか。これから僕が積み重ねてきたもの、歩んでいく道の果てが「大人になった僕」だ。それで誰かを救えたなら、誰が何と言おうと良い大人だ」
それから時が過ぎ、出会いや別れ…様々な経験を経て、現在だ。
ひとはひとりだが、人は一人では生きていけない。
だからこそ言葉が、文章が必要なんだ。
煙草の火はとうに消え、長い灰がフィルターにくっ付いているかのような状態で
想いよ届け、僕を僕が救うためにと、今の僕は必死に訴える。
いつも一番近くで僕に救いを求めていたのは、他ならぬ僕自身なのだとわかったから。
あの頃の僕は、いまだ無表情で僕を見つめている。
雲の切れ間から、大きな月が顔を出していた。
8月2日、僕がうまれた。
僕の生き方を否定することは、僕にだってさせません。
— サバト (@sabachaaan) 2016年8月4日